2009年04月01日
第六話
私は奥の事務室に向かった。
次長が座っている。
私はこの男の、眼鏡の奥の狡猾そうな視線がとても嫌いだった。
ドアを閉め、突っ立っていた私に椅子を指差し、座るように促した。
眼はこちらを向いていない。
私は座った。
微笑んでいる。
ライターを手の中で弄びながら微笑んでいる。
早く話を始めてくれ。
私は心の中で叫んだ。
永い沈黙が、私になぜここにいるのかを分からなくさせる。
「お前は遅刻をするような奴じゃない。
嘘もつくような奴じゃないよ。
お前はまだ入って間もない頃、次長のこの俺に向かって、自分はキャバクラに来る客の気持ちが分からない、客に売っているモノは何か?と訊いてきたな。
俺が女だと答えるとお前は違うと言って、空間と雰囲気じゃないのかと答えた。
俺はそれも売り物のひとつだと言った事があったな。
随分、真っ直ぐな奴が入ってきたと思ったよ。
お前は絶対に俺に嘘はつけない。
飲みに行った事を叱るつもりは無いよ。
ただ店に穴を開けるような飲み方を、部下と一緒にしてしまう店長を、お前はどう思う?」
下を向きライターを弄んでいる。
そのままだった。
「駄目ですね。
俺が言えるような立場じゃありませんが、この店の店長としては失格です」
「そうだよな。
お前にも部下がいるんだ。
もう同じ間違いはしないでくれ」
「わかりました。
申し訳ありません」
まったく関心がなさそうに、こちらを向かない。
この会社の性質か、水商売の性質か、私以外の者は上司から部下まで殆んどが、誰かしら毎日遅刻していた。
皆、自分の上司に張り倒され、減俸を食らうだけで処分は終わりだった。
遅刻の事で次長から叱責を受ける者はいない。
次長は煙草を咥え、火をつけた。
私の頭の中では、もう話は終わりじゃないのかと言い続けていた。
早くここから出してくれ。
「お前も吸えよ」
言われた通り火をつけた。
話は終わりじゃない。
感じた。
吸うたびにチリチリと煙草が燃えていく音だけが聞えてくる。
質問もしてこない。
永い。
空気が重く圧し掛かってくる。
私の指先からポトリと床に灰が落ちた。
私は次長を見た。
次長は眼だけでこちらを見ていた。
「何を話した?」
もう微笑んでもいない。
「誰とでしょう?」
「外谷とさ」
眼鏡の奥の眼だけで私を見ている。
「店の話・・・今、売り上げがどうとか・・・」
実際、はじめはそんな話もしていた。
「いつだ?」
「昨晩の話をしているんですよ」
「いつ店を出すんだ?」
「・・・」
頭の中が真っ白になった。
いきなり来た。
既に知っている。
武田が喋ったのか・・・。
また灰がポトリと床に落ちた。
私は灰皿を引き寄せ煙草を消した。
もう知っている。
腹を決めるしかない。
私は次長の眼をしっかりと見た。
「俺は・・・話すつもりありません。
嘘をつくつもりもありません。
実際、昨日は店の売り上げの話もしましたけど、他の話もしました。
だけど・・・それを今ここでするつもりも、ありません」
フッと笑顔になった。
眼だけが笑っていない。
次長が煙草を消す。
「お前が武田と同じ方法で喋るとは、はじめから思っていないよ。
しかし、お前はこうやって店に穴を開けた外谷の肩を持つのか?」
「別に誰の肩を持つとか味方するとか、誰につくとかいう事じゃありません」
「外谷に誰にも言うなと約束させられたのか?」
「そういう事ではなく、自分の中でこの話は誰にもしないと決めてしまったので、周りがどう動こうと話すつもりはないという事です。
しかし、その話によって俺も動こうとは思っていません」
この男にはこれで充分だと思った。あとは巧く逃げるしかない。
「どこなんだ?」
黙っていた。
何も考えないようにした。
腹を決めてしまえばこんなものだ。
殆んど同時に、煙草に火をつける。
私は次長を見据えた。
笑っていない。
眼が合ったままだ。
沈黙が嫌ではなくなった。
頭の中で数をかぞえていた。
三百。
恐らく私の表情は、もう、どうでもいいような感じになっていた。
「俺が脅しても殴っても喋らない男だという事を、ご存知だという事ですよね」
眼は合ったままだ。
指が焼けたのか次長は一瞬驚いたような顔になり、自分の指先に眼をくれると急いで煙草をもみ消した。
私の番だった。
灰皿を引き寄せ、ゆっくりと煙草を消す。
「これ以上話していても、店に迷惑がかかるだけですから仕事に戻ります」
私が立ち上がっても、次長は止めようともしない。
一礼し、店内へ戻って行く。
私は、殴られれば口を割ってしまうような男かも知れなかった。
しかし、自分の中で決め事をつくり、守る。
そして、人の印象は他人が勝手に築き上げていく。
フロントに行き武田の腹に軽くオミマイした。
武田がうずくまりながら「喋ってすいません」と言い、私は笑って仕事に戻った。
次長が冷めた表情で店から出て行く。
営業が終わり、私は外谷に報告を入れた。
「それは、たぶん武田が全部喋ったな。
まあ、はじめからあいつには口を切ってもらうつもりだった。
予定より少し早かったがね。
もう、お前もそこに長くは居られないな。
早いトコばっくれて、合図があったらすぐに動けるようにしておけよ」
電話を切った。
私はまだ返事をしていない。
もう、水商売はいい。
次の日の朝礼で、次長は店長が解雇になった事を発表した。
女の子たちは大騒ぎだった。
そして支配人の佐々木が副店長に昇格した。
店長と名の付く者がいなくなったのだ。
タイミングが悪いとは思ったが、私は今回の事とは関係なく、あと一ヶ月で店を辞めさせてくれと佐々木に言った。
佐々木とは色々あったが、人間性は悪い奴ではなく、私のことも可愛がってくれ、辞めたい理由を納得し、私の為にと、店に引き止めるのを諦めてくれた。
それから次長は何度か店に顔を見せたが、挨拶をしても私の事は無視だった。
そんな時、私は「あんたは女か・・・」と呟くのだった。
しばらくすると、赤上が失踪したという情報が流れてきたが、彼からも直接連絡が来て、プリンスの寮を抜け出し、八王子の店舗の為に準備をしていると語っていた。
私は八王子に行く気がない事を伝えたが、とにかく、西さんという人に会ってくれという事で、一方的に話は終わらされた。
辞職を受け入れられた私は以前より活気を出して、担当コンパニオンの売り上げを伸ばし、女の子の面倒もよくみていた。
「発つ鳥、あとを濁さず」が好きなのだ。
きれいに辞める。
今までもそうしてきた。
忙しくて出来なかった常連のボトル台帳も、きれいにまとめあげた。
営業中も以前よりさらにキビキビとし、ウェイターに一喝入れ、女の子に話しかけて指示を与え、客に最高の笑顔で応対し、恭しくお辞儀をした。
佐々木は嬉しそうだった。
「そうか畑中ちゃん。
やる気を出してくれたか!」
「いえ、違います。
いいかげんなまま辞めたくないだけですよ」
「それは、こっちにとっては残酷な事だぞ。
出来る男が辞めていくのを、ただ眺めている事になる。
お前は見せ付けたいのか?」
「そんなつもりはありません。
しかし・・・」
「わかったよ。
無理強いはしないよ」
佐々木の態度は以前と全く変わりなかった。
私が辞める日まであと二週間と少し、という頃だ。
営業が終わるとドカドカと、スカウトの為に会社で雇っている若い衆たちがやってきた。
「畑中!おい畑中!」
呼び捨てとは何事だ。
上下関係の明確なこの世界で、下の者から名前を呼び捨てにされたのは初めてであり、私もいきり立った。
しかし、後ろから次長もやってきている。
次長と一塊になっている集団を見て、私は呆然とした。
次長が座っている。
私はこの男の、眼鏡の奥の狡猾そうな視線がとても嫌いだった。
ドアを閉め、突っ立っていた私に椅子を指差し、座るように促した。
眼はこちらを向いていない。
私は座った。
微笑んでいる。
ライターを手の中で弄びながら微笑んでいる。
早く話を始めてくれ。
私は心の中で叫んだ。
永い沈黙が、私になぜここにいるのかを分からなくさせる。
「お前は遅刻をするような奴じゃない。
嘘もつくような奴じゃないよ。
お前はまだ入って間もない頃、次長のこの俺に向かって、自分はキャバクラに来る客の気持ちが分からない、客に売っているモノは何か?と訊いてきたな。
俺が女だと答えるとお前は違うと言って、空間と雰囲気じゃないのかと答えた。
俺はそれも売り物のひとつだと言った事があったな。
随分、真っ直ぐな奴が入ってきたと思ったよ。
お前は絶対に俺に嘘はつけない。
飲みに行った事を叱るつもりは無いよ。
ただ店に穴を開けるような飲み方を、部下と一緒にしてしまう店長を、お前はどう思う?」
下を向きライターを弄んでいる。
そのままだった。
「駄目ですね。
俺が言えるような立場じゃありませんが、この店の店長としては失格です」
「そうだよな。
お前にも部下がいるんだ。
もう同じ間違いはしないでくれ」
「わかりました。
申し訳ありません」
まったく関心がなさそうに、こちらを向かない。
この会社の性質か、水商売の性質か、私以外の者は上司から部下まで殆んどが、誰かしら毎日遅刻していた。
皆、自分の上司に張り倒され、減俸を食らうだけで処分は終わりだった。
遅刻の事で次長から叱責を受ける者はいない。
次長は煙草を咥え、火をつけた。
私の頭の中では、もう話は終わりじゃないのかと言い続けていた。
早くここから出してくれ。
「お前も吸えよ」
言われた通り火をつけた。
話は終わりじゃない。
感じた。
吸うたびにチリチリと煙草が燃えていく音だけが聞えてくる。
質問もしてこない。
永い。
空気が重く圧し掛かってくる。
私の指先からポトリと床に灰が落ちた。
私は次長を見た。
次長は眼だけでこちらを見ていた。
「何を話した?」
もう微笑んでもいない。
「誰とでしょう?」
「外谷とさ」
眼鏡の奥の眼だけで私を見ている。
「店の話・・・今、売り上げがどうとか・・・」
実際、はじめはそんな話もしていた。
「いつだ?」
「昨晩の話をしているんですよ」
「いつ店を出すんだ?」
「・・・」
頭の中が真っ白になった。
いきなり来た。
既に知っている。
武田が喋ったのか・・・。
また灰がポトリと床に落ちた。
私は灰皿を引き寄せ煙草を消した。
もう知っている。
腹を決めるしかない。
私は次長の眼をしっかりと見た。
「俺は・・・話すつもりありません。
嘘をつくつもりもありません。
実際、昨日は店の売り上げの話もしましたけど、他の話もしました。
だけど・・・それを今ここでするつもりも、ありません」
フッと笑顔になった。
眼だけが笑っていない。
次長が煙草を消す。
「お前が武田と同じ方法で喋るとは、はじめから思っていないよ。
しかし、お前はこうやって店に穴を開けた外谷の肩を持つのか?」
「別に誰の肩を持つとか味方するとか、誰につくとかいう事じゃありません」
「外谷に誰にも言うなと約束させられたのか?」
「そういう事ではなく、自分の中でこの話は誰にもしないと決めてしまったので、周りがどう動こうと話すつもりはないという事です。
しかし、その話によって俺も動こうとは思っていません」
この男にはこれで充分だと思った。あとは巧く逃げるしかない。
「どこなんだ?」
黙っていた。
何も考えないようにした。
腹を決めてしまえばこんなものだ。
殆んど同時に、煙草に火をつける。
私は次長を見据えた。
笑っていない。
眼が合ったままだ。
沈黙が嫌ではなくなった。
頭の中で数をかぞえていた。
三百。
恐らく私の表情は、もう、どうでもいいような感じになっていた。
「俺が脅しても殴っても喋らない男だという事を、ご存知だという事ですよね」
眼は合ったままだ。
指が焼けたのか次長は一瞬驚いたような顔になり、自分の指先に眼をくれると急いで煙草をもみ消した。
私の番だった。
灰皿を引き寄せ、ゆっくりと煙草を消す。
「これ以上話していても、店に迷惑がかかるだけですから仕事に戻ります」
私が立ち上がっても、次長は止めようともしない。
一礼し、店内へ戻って行く。
私は、殴られれば口を割ってしまうような男かも知れなかった。
しかし、自分の中で決め事をつくり、守る。
そして、人の印象は他人が勝手に築き上げていく。
フロントに行き武田の腹に軽くオミマイした。
武田がうずくまりながら「喋ってすいません」と言い、私は笑って仕事に戻った。
次長が冷めた表情で店から出て行く。
営業が終わり、私は外谷に報告を入れた。
「それは、たぶん武田が全部喋ったな。
まあ、はじめからあいつには口を切ってもらうつもりだった。
予定より少し早かったがね。
もう、お前もそこに長くは居られないな。
早いトコばっくれて、合図があったらすぐに動けるようにしておけよ」
電話を切った。
私はまだ返事をしていない。
もう、水商売はいい。
次の日の朝礼で、次長は店長が解雇になった事を発表した。
女の子たちは大騒ぎだった。
そして支配人の佐々木が副店長に昇格した。
店長と名の付く者がいなくなったのだ。
タイミングが悪いとは思ったが、私は今回の事とは関係なく、あと一ヶ月で店を辞めさせてくれと佐々木に言った。
佐々木とは色々あったが、人間性は悪い奴ではなく、私のことも可愛がってくれ、辞めたい理由を納得し、私の為にと、店に引き止めるのを諦めてくれた。
それから次長は何度か店に顔を見せたが、挨拶をしても私の事は無視だった。
そんな時、私は「あんたは女か・・・」と呟くのだった。
しばらくすると、赤上が失踪したという情報が流れてきたが、彼からも直接連絡が来て、プリンスの寮を抜け出し、八王子の店舗の為に準備をしていると語っていた。
私は八王子に行く気がない事を伝えたが、とにかく、西さんという人に会ってくれという事で、一方的に話は終わらされた。
辞職を受け入れられた私は以前より活気を出して、担当コンパニオンの売り上げを伸ばし、女の子の面倒もよくみていた。
「発つ鳥、あとを濁さず」が好きなのだ。
きれいに辞める。
今までもそうしてきた。
忙しくて出来なかった常連のボトル台帳も、きれいにまとめあげた。
営業中も以前よりさらにキビキビとし、ウェイターに一喝入れ、女の子に話しかけて指示を与え、客に最高の笑顔で応対し、恭しくお辞儀をした。
佐々木は嬉しそうだった。
「そうか畑中ちゃん。
やる気を出してくれたか!」
「いえ、違います。
いいかげんなまま辞めたくないだけですよ」
「それは、こっちにとっては残酷な事だぞ。
出来る男が辞めていくのを、ただ眺めている事になる。
お前は見せ付けたいのか?」
「そんなつもりはありません。
しかし・・・」
「わかったよ。
無理強いはしないよ」
佐々木の態度は以前と全く変わりなかった。
私が辞める日まであと二週間と少し、という頃だ。
営業が終わるとドカドカと、スカウトの為に会社で雇っている若い衆たちがやってきた。
「畑中!おい畑中!」
呼び捨てとは何事だ。
上下関係の明確なこの世界で、下の者から名前を呼び捨てにされたのは初めてであり、私もいきり立った。
しかし、後ろから次長もやってきている。
次長と一塊になっている集団を見て、私は呆然とした。