20代前半の畑中はそれまでの商社を辞めて、水商売の世界に入る。はたして、愛読小説の中に見た男たちの壮絶なドラマは繰り広げられたのか?想像に描いていた通りの実力の世界だったのか?これは畑中が若かりし頃・・・20年程前の物語である・・・

2009年04月01日

第一話

上が見えていた。

もう、昇格する事はないと明言されたようなものだ。



バンド活動を辞め、サラリーマンになろうと決心し入った小さな商社だ。

上司は社長とその息子であり、二十代前半の私はこの淡々と商品の仲介をしている会社で何を成し遂げようというのか。

社長は今の売り上げで満足しており、何かを仕掛けるというような野望を持っておらず、部下も楽をして生きる事しか考えていない。

会社を変えようなどという事は、私には考えられなかった。



実力の世界。

その言葉は私にとって、とても甘い響きに聴こえ、魅力的な世界に思えた。



その頃、愛読していた小説の中に「ブラディ・ドール」という名のクラブを舞台とした男たちのドラマがあった。

水商売の世界で生きる男たちの壮絶なドラマだ。

ストーリー設定が水商売というだけのものである事は重々承知していたが、ネクタイをぶら下げて満員電車の中で垣間見るその世界に私は惹かれ、いつしか、熱い男たちと実力の世界で生きる事を心に決めていた。






「おい、便器は磨いたのかよ」

「はい」

「便器に顔が映んねえぞ、コラ」

浜野が鼻血を袖で拭いながら、再び雑巾を持って、便所に向かった。

どんなに磨いても便器に顔が映ることはない。



入社して、まず教えられた事は掃除だった。

十六時に出勤し、雑巾がけ、掃除機かけ、トイレ掃除。

舐める事が出来る程に念入りに行う。

そして上司のチェックが入り、掃除のしなおしが命じられる。

逆らえば鉄拳制裁である。



同期が他に三人。

三人とも私より一週間前の入社であり、店の籍に入っているのは、新人四人と店長のみであった。

他の上司は同社他店からの応援だ。

他に二人の中国人が料理と酒作りを担当していた。



掃除の次がテーブルセッティングで、テーブル、コースター、ウォーターポット、タンブラー、灰皿を並べ終えると、既に十七時をまわる。



中国人のチーフがホールに食事の時間である事を伝え、私たちは賄を自分でテーブルに運び、店長の望月に声をかけ、スタッフ全員で同じ食事をとる。

賄といってもステーキや本格中華が出る事もしばしばで、食事は皆、申しぶんないといった感じだ。

唯一、雑談が許される開店前の時間で、食事中は皆、活き活きと会話を楽しんでいたが、私は同期の武田、浜野、山口の三人と自分から会話をはじめようという気にはなれなかった。



食事を済ますとすぐにおしぼり巻きで、早く、多く、綺麗に巻く事が鉄則となる。

もともと巻いてある状態で袋詰めの物を、袋から出して巻きなおす作業は、殆んど時間つぶしとしか思えなかった。

巻きなおした物をホットウォーマーに入れ、十八時半頃には看板を磨き、おもてに出す。



あとは備品の整理や補充をし、十九時の開店まで小さな雑用を探しながら、暇をみてドリンクを作るスペースであるパントリーで皆、一服する。



武田は同期の中で唯一の水商売経験者で、他社で水商売を三年も続けた男である。

この世界の新人は一ヶ月程度で入れ替わると聞いていた私は、武田から目を離さないようにして、仕事を行っていたが、その視線に気づいた彼は、丁寧に仕事の仕方を教えてくれるのだった。  


Posted by H (agent045) at 07:00第一話

2009年04月01日

第二話

掃除やセッティングでは、ドリンク作り、カクテル作りで雇われているパントリーの中国人がカタコトの日本語で、なぜか命令してきていた。

皆、相手にせず、馬鹿にした態度で彼の命令を無視したが、私は気持ち良く彼の命令に聞き従い、初日の内に彼と打ち解けあった。

いちばん店のことを知っており、彼の言う事に間違いはなかった。

むしろ売り上げまで気にしている様子で、昨日の売り上げを私に教え、今日の売上目標を立たせるのだ。

私はパントリーの人間の歩合給も、売り上げにより大きく変わるのだと勝手に考えていた。



十九時に朝礼。

新人は皆ウェイターである。

元気良く返事をして応対する事、迅速な動きで間違えない事、コンパニオンと会話をしない事、もし、会話をするとしたら、お客様としての扱いをする事を求められた。

そして、営業が始まる。

コンパニオンは客に対するのとは、明らかに異なる態度でオーダーし、少しでも遅いと客には聞こえないように、耳元で罵声を浴びせるのだった。

私は誰よりも早く、誰よりも明るく、そして誰よりも丁寧な応対を徹底し、召使いのように扱われる事が、まるで快楽でもあるかのように振舞った。

時間制の店なので客の回転率も早く、ウェイターは皆、汗まみれとなる。



営業終了後も女の子との会話は許されなかった。

私にとっては都合が良かったが、他の新人は隠れて話していたし、コンパニオンも話し掛けてきたり、チョッカイ出してきたりしていた。

私は無視するか、執事が主人に対するような話し方で接した。

トップナンバークラスの女の子たちは、私のそれが、とても、お気に入りだった。



一週間も経つと次第に仕事がしやすくなっていた。

実のところ女の子はウェイターの動きをよく見ていて、よく動く人間、客に好まれる人間を定め、自分の仕事がスムーズに運ぶウェイターだけにオーダーし、またそのウェイターを認めてもいるのだった。

私は大忙しだったが、むしろ、それは快感でもあり、コンパニオンの我儘も少なく、仕事自体は円滑に進んだ。

二ヵ月後くらいには楽しんで仕事をこなせるようになっていた。

私にはウェイターが向いているのではないかと思うくらいに。

一組の客が帰り、テーブルを片付けて戻る時、中年の男に声をかけられた。

初めて見る顔だ。

「畑中、ちょっといいか」

客ではない雰囲気を悟り、店長の望月に目を移すと、あまり表情を動かさない望月が口元だけで笑い、頷いている。

営業中だというのにボックス席に連れて行かれ、座らされた。

私の頭の中では何も考えていない。

「お前はサラリーマンだったんだろう。
なぜウチの会社に入った?」

「はい、先の見える仕事ではなく、自分で先を見えるようにしていきたかったので」

「この仕事に見える先はないぞ」

「だから、見えるようにしていけるんじゃないですか」

「結婚しているだろう。
カミさんは何と言ってる?」

「生きたいように生きろと」

「珍しいな。
続けていけるのか?
一度、水商売に入ると中々抜け出せないぞ。
ウチを辞めても、どうせ、また他で水商売をする事になる。
ずっと、ウチでやっていけよ」

意味が分からなかった。

私はウェイターに過ぎない。

「私は、プリンスを辞めたら、同じ水商売、どこでやっても勤まらないと思うので、二度と水商売はしませんよ。
ウチが最初で最後のつもりでやっています」

「プリンスが最初で最後か・・・」

店内で客が大騒ぎをしていた。

どうやら、コンパニオンがドリンクをこぼしたらしい。

私と男の視線は自然とそちらに移り、男が頷いたので、私は頭を下げて席を立った。

「アナタ、スゴイヨ!
アレ、ホンシャージチョウ!
ナニ、ハナシタカ?」

トレーに入った塩に手早くグラスの淵を滑らせながら、リンが興奮気味に訊いてくる。

「世間話だよ。
大した話は何もしていない」

「ワタシ、アナタノコト、ジチョウニ、キカレタ。
レジノヒトモ、キカレタ」

店長の望月からは何も聞かされず、パントリーのリンから彼が本社の次長であることを聞いた。

望月は朝礼の時と指示する時以外、ウェイターとは会話をせず、営業中はホールを見ていて、コンパニオンを呼び出し、何か会話をする。

楽しそうに嬌声が上がる事もあれば、女の子が泣いている事もある。

望月の指示は的確で、失敗してもそれを深く咎めず、直後に「それは違う」「今のは駄目だ」と一言強い口調で言うだけだ。

とても従いやすい。



八月のボーナス時期を抜ける頃、私には主任昇格の辞令がおりた。

八月二十日付で、私の入社六月二十一日からおおよそ二ヶ月目の事である。

その日から、殆んど掃除はしなくなった。

他店からの応援もなし。

店長の望月、主任の私、同期である社員三人、それに、アルバイトウェイターだけとなった。

出勤するとトイレ掃除だけは自分で行った。

チェックをして叱るよりも、その方が楽だと考えたのだ。

同期の連中は私よりも一週間前からいて、私に掃除の仕方を教えてくれていた。

武田は他社で三年も水商売をしてきている。

しかし、掃除をしている私も他の同期も、パントリーのリンに怒られるのだった。

「アナタ、シュニン!
ナンデ、ソウジ、ヤルカ!
アナタ、ミテテ、シジ!
ホカニ、ヤルコト、アルヨ!」

それをやられると皆、私に「掃除はいいから・・・」と苦笑して言ってくれた。

確かに私には他にやるべき事が沢山あった。  


Posted by H (agent045) at 06:00第二話

2009年04月01日

第三話

営業面で店長はホールを見なくなり、私はウェイター業務を卒業し、女の子の付け回しを任された。

付け回しとは、コンパニオンの移動を指示して、効率よく指名テーブルを回らせたり、テーブルの様子を観察して、コンパニオンを入れ替えたりする業務である。

また売上向上の為に、女の子にオーダーを追加するように促しながら、テーブルに付けていく事もある。

付け回しは基本的にホール担当なので、ホールの事はすべて把握していなければならない。

すべてのテーブルの会話を知っていなければならないし、客が退屈していないか、金をいくら使ったかも考えなければならない。

勤勉な付け回しと怠慢な付け回しとでは、売り上げにも雲泥の差が出てしまう。



望月は私が主任になってからというもの、時間が空けば必ず話しかけてくるようになっていた。

自分が水商売に入る前は証券会社に勤めていた事、目標は店の売り上げではなく、部長となり横浜プリンスの何十店舗もの店を統括する事、それから、水商売をやっていく上での自分の考え方。

「水商売に入る男は普通に世の中でやっていけない奴らが殆んどだ。
吹き溜まりだよ。
だから俺たちは人が遊んでいる時に働いて、そいつらよりも高い報酬を手にするんじゃないか。
大金を掴まなきゃ水商売をやっている意味ないぞ」

内容は彼の主観が殆んどであったが、会話を嫌っていたと思えていた望月が熱く語ってくる、その行為に私は喜びを感じていた。

「仕事中でも、お前は質問が少ないよな」

「言われた事を実行して、自分で考える事が、今の自分の仕事だと思っていますから」

「それはいい」

私からの会話は少ないが、私は望月を尊敬し、慕っているのかも知れなかった。



主任になってからは、むしろコンパニオンである女の子と話す事を強要される。

営業終了後、望月に今日はコンパニオンと話したかと訊かれるのだ。

営業中でも時間をとって話さなくてはならない。

指名テーブルがある場合も、テーブルから呼んでコンパニオンと会話をする。

内容は何でもいい。

常に話し掛けるように心がけた。

無口だと思われていた私の言葉には、誰もが耳を傾けた。

自分の恋人のように関心を示し、自分の恋人のように話し掛けるのだと教えられた。



朝礼は私が進行していた。

挨拶、点呼、今日のスケジュール、心がける事、そこに店長である望月の一言である。

私にはまず、コンパニオン五人の担当が配分された。

その子たちの出勤を増やし、売り上げを伸ばす為の担当だ。

その後、望月が転勤になり店長が替わるまで、望月と半分ずつ担当を任される事になる。



私は出勤すると相変わらずトイレ掃除を行っていた。

他の業務に支障をきたさなければいいのだ。

主任の私がトイレ掃除を行っているのだから、新人はそれを見て、さらに動かざるを得ない。

トイレ掃除を終えると、その日、出勤の子を出勤盤に揃える。

名前が札になっており、出勤の子はおもてにして提げるという物だ。

それを事務室のよく見える所に置き、その日の職務配置表を書き込む。

誰がウェイター、誰が客引き、誰がフロント案内、誰がリスト付け、誰が付け回し、という物である。

さらに売上目標、客数、客単価などを決定して書き込む。

食事を済ますと出勤する女の子たちへの電話で、何時に出勤するのか、客は呼んだのか、同伴はするのか、事細かに会話の中に織り交ぜていく。

十八歳、十九歳という年齢の子たちを扱っているウチの店などは、往々にして女の子に時間通り出勤させる事に苦労した。

必要な事しか話さない水商売の男の縦社会とは裏腹に、どうでもいい雑談で女の子を楽しませる。

これが必要なのである。

人間関係が出来上がっていないと、やりにくい仕事だった。

午前二時、営業が終わると、その日の売り上げを計算し、個々の売り上げに分けていく。

色々とやることはあり、帰れるのは朝となっていた。



しばらく経つと今度は、もっとコンパニオンに叱る事を望月から求められた。

コンパニオンとの人間関係が出来上がってきた証拠だ。

それからは凄く厳しく叱った。

よく出来た時にはよく褒め、感謝もした。

そうなってくると、もう、こちらのペースだった。

面白いように売り上げも上がる。



店長の望月は転勤となった。

コンパニオンである女の子と関係し、トラブルを起こしたからだ。

普通なら百万円の罰金を徴収され、解雇となる。

入社する時にそういった内容の文面に皆、署名をしているからだ。

上層部から認められ、気に入られてもいた望月は、他店へ転勤させられ、副店長に降格する事だけで済んでいた。



新しい店長が他店から配属されてからは、店長よりも私の方に女の子たちが慣れている為、ほぼ全員の面倒をみた。

店長は売れそうな子だけ気に留めていればいいのである。

主任は主任の仕事をこなせばいいだけではなく、上司が全ての面で楽をするようにサポートをし、初めて上が見えてくるのだ。

店長は替わったが私は望月のやり方や方針が気に入っていた為、その方針を貫いたが他店から配属されたその店長は、自分の方針を打ち出そうとはしなかった。

私は自分の店だという感覚で、売上高を更新していった。

朝まで売上計算やミーティングを行い、昼頃には新しい子を揃える為に、会社でスカウト要員として雇われている、十代の若い衆たちと共に街に繰り出し、女の子に声をかけるという日々が続いた。



「畑中、ちょっといいか」

営業が終わってから来ればいいものを、と思いながら私は部下に店内を任せ、次長の後について奥の事務室に向かった。

この男が営業中に雑談をしにやってくるのは何度目だろうか。

「お前にしか出来ない事がある」

言葉には期待させるニュアンスが含まれていたが、私は嫌な気分に襲われた。

「一部の幹部で話し合ったんだ。
今のプリンスに本部長はいらない」

「それで、俺に何が出来るんですか?」

「店長の上にいる山田さん、知ってるだろう。
店部長の。
彼は本部長が引き抜きで連れてきたんだ。
仕事もろくに出来はしない。
山田さんと問題を起こせよ。
きっかけは何でもいい。
喧嘩すればいいんだ」

「上司とですか?」

「俺がやれと言ってるんだよ。
お前の事は俺が守ってやる」

「この事は、望月さんも知ってるんですか?」

「ああ、知っている。
そうか、お前はずっと望月の直属だったもんな」

望月からは何の連絡も来ていない。

恐らく、望月に意見する権限はないのだろう。

こんなやり方をいいと思っているはずはなかった。

しかし、私にも選択の余地はない。  


Posted by H (agent045) at 05:00第三話

2009年04月01日

第四話

私は店部長である山田を辞めさせる直接の原因を演じる役となり、あとは幹部会で本部長の責任問題を追及したとの事だった。

それを発端に他の責任問題も取り上げて、本部長を本社本部へ吊るし上げ、本部長は解雇となった。

内部はガタガタである。

グループのトップ不在で、幹部同士にも不信感が募っていた。

山田の管轄であった私の配属されていた店は、幹部会でリニューアルオープンする事が決定し、私は転勤になった。

横浜の水商売業界で一番大きな会社だ。

店は幾らでもある。



私はもっと大きな店へと移ったが、主任の肩書きが付いたまま、掃除、ウェイターからのスタートだった。

当たり前である。

通常の店では、平社員、主任、支配人、副店長、店長、という順番であるから、主任なんていうのは、ギャルソン指揮程度の仕事しか与えられない。

しかも、横浜プリンスの中では歴史のある店なので、いきなり私の働きで売り上げが上がるというものでもなく思えたが、すぐにフロントを任され担当も与えられた。

以前の店から移籍してきた女の子たちも、私のウェイター姿には相当ウケていたものだ。



しかし、縦社会で規律の厳しい水商売である。

上にコロコロと変わられては、どうもやりにくい。

殆んど、上司に男惚れして付いて行かなければ、一ヶ月ともつような仕事ではない。

実際、新人従業員の大多数が一ヶ月くらいで辞めていく。

上層部の裏工作に利用された私にとって、水商売業界に対する魅力は消え失せ、せめて、望月と一緒に仕事がしたいと願うばかりだったが、再び同じ店に配属される可能性は皆無に等しく、私は辞表を提出し、辞めたい理由を説明した。

もともと、自分が水商売向きだとも思っていなかった。



その日から毎日のように、次長に飲みに連れて行かれた。

営業中にだ。

しばらく、タイムカードは打つが、仕事もせずに飲み歩く日々が続く。

営業終了近くになって帰ってくるのである。

その間、次長の「辞めるな」という説得も続く。

営業が終わってからは、副店長の赤上に飲みに連れて行かれ、やはり、一緒に仕事をしていきたいと熱く語られた。

赤上とは馬が合い、彼の仕事の仕方も私は気に入っていた為、赤上には断固としてというような態度はとれなかった。

そして、無理やり三連休で有給休暇も与えられ、旅行にも行かされた私は困り果ててしまっていた。

その頃、望月も会社に辞表を提出していた。

理由は分からない。

彼もはじめは「辞めるな」と説得されていたようだが、次長は彼の決意が固い事を悟ると、従業員や幹部連中に望月の悪口を言い始め、 仕舞には店の若い衆を集めて「あいつは、俺がこんなに目を掛けて可愛がってやったのに!」と嗾けて、辞めた日に、家まで殴り込みに行かせたのである。



その日、営業が終わり、売上計算をしていると、支配人である佐々木が酔っ払った状態で店に入ってきた。

考えてみれば営業中に佐々木の姿を見ていない。

「お前はあの野郎と仲が良かったよな!」

いきなりの衝撃。

顔、腹と来て、私は床にしゃがみこんだ。

上司に殴られる事には慣れている。

自分に言い聞かせた。

靴が見え、視界が赤く染まり、錆びた鉄の匂いがした。



佐々木が羽交い絞めにされ、次長に怒鳴られていた。

腑に落ちない事だったが、次長が私の味方になっているかたちだ。

佐々木は望月の事で激怒したのだと、あとで聞かされた。



また再び、私には転勤の辞令がおりた。

ニューオープンの立ち上げである。

一番早い出世コースと言われている。

新店は軌道に乗った時点で昇格が決まるので、新店の人事には、かなり慎重だという話だった。

辞表の件はどこかに流れ、私が支配人に昇格する日が近いと目された。

しかも話題性に富み、テレビの深夜番組でも紹介される予定の店となる。

ニューオープン準備の一ヶ月間、私は予定の店舗で電話番や面接受付、仕入れ準備などを行った。

暇な時は本を読んだりする事も許されていた。

次長は多くのトラブルに巻き込んでしまった私に、充電期間でも与えたつもりだったのだろう。

それでも、私の気持ちが変わる事はなかった。  


Posted by H (agent045) at 04:00第四話

2009年04月01日

第五話

新店をオープンして二ヶ月経った頃、やはり私は辞める事を上司に告げた。

店は軌道に乗っている。

その店の店長である外谷は器が大きいのか怠慢なのか、分からない程の謎めいた男だった。

私が辞めると言っても、ただ笑っているだけなのだ。

しかし、私はその男が嫌いではなかった。

仕事上でも全て分かっていて、何も言わないタイプのように思えた。

その男と話していると自分でも本当に辞めたいのか、どうなのか分からなくなってくる。

そんなある日、営業が終わると、店長の外谷から飲みに誘われた。

再び同店に配属された武田も一緒だ。

私と同期で、他社での水商売暦が三年の男であるが、未だに昇格せず、ウェイターのままだった。

飲み屋に着くと同社他店の主任である千葉もいた。

その男は外谷と共に、何年も水商売を渡り歩いてきた男で、以前の店の副店長である赤上を含む三人で、ずっと同じ道を歩んでいる。



雑談を交わしながらグラスを傾けていた。

こんな男たちと飲むのも、そう悪くない。

武田は既に顔を赤く染め、眠そうな目を一生懸命に擦っている。

いきなり外谷が「俺はこんなトコには、居たくないんだよ!」と声を張った。

何を言っているのか分からなかった。

他で飲みたいのだろうか。

「お前も、この会社の汚い部分を見てきた男だろう。
畑中、俺は店を出す。
遠い話じゃないよ。
他の奴には言うな」

私は黙って頷いた。

ヤバイ話だ。

酔っ払っているのか・・・。

しかし、外谷は私を真っ直ぐに見て言った。

「この話にゃ、赤上も一枚噛んでる」

私が望月の他に男惚れしていた同社他店の副店長だ。

同じ店で働く事などない頃から、よく飲みに連れて行かれ、二人で語り明かした事もある。

トラブルを防ぐ為、同じ会社にいても、他店の者との交流は禁止に近かったので、お互い秘密の出来事としていた。

赤上には気に入られ、認められてもいた。

同じ店で勤務した事もある。

「あいつと俺は親友みたいなもんで、千葉と三人で今までずっと一緒だったんだよ」

この三人の話は赤上からも聞かされていた事だ。

「また一緒に組んで仕事をするんだ!
お前も一緒だ畑中!
もう、お前のマンションも用意してある。
俺はお前の事をよくは知らないが、赤上がお前じゃなきゃ絶対イヤなんだとよ!」

驚きと感動が同時にやってきた。

しかし、私には水商売を続けていく気はない。

「俺はやるぞ畑中。
俺について来い!
惨めな思いはさせない。
お前には支配人として来てもらうつもりだ!」

笑っている。

「オープンは秋だから、お前は今の店にいて、俺がゴーサインを出したらコッチに来い!
俺はそろそろ姿を消すから。
それから女を引っ張って行くつもりは無いよ。
心配するな。
もう土壌は出来上がっているんだ。
場所は八王子。
俺らの上にはビッグな人が付いている。
東京で有名な「CATS」という店を成功させた人で西さんという。
俺らはココに来る前に、ずっとその人の下でやってきたんだ。
プリンスがタチウチ出来る人じゃない。
お前にもいずれ会ってもらう」

それから、私と一緒に来ていた武田に向かって「お前はどっちでもいいぞ。自分が来たいと思ったら来ればいい。誰と仕事をしていきたいか自分で考えるんだ」と言った。

武田は目を擦りながら黙って頷いた。



私が家に着いたのは昼過ぎである。

これまでにない、ひどい泥酔状態だった。



ハッとした。

時計を見ると既に十八時をまわっている。

携帯電話は着信があった事を表示しており、調べると同じ店の支配人である佐々木から、何度も呼び出しがあった事が分かった。

私はすぐに佐々木へ電話を入れ、寝坊した事、営業までには間に合う事を伝えた。

それからは猛ダッシュである。

店に到着すると、すぐに佐々木に頭を下げて謝った。

彼は「お前らがいないと大変だよ」と悲しい顔で答えるだけだった。

拍子抜けをした。

私は一発食らう覚悟でやってきたのだから・・・。

しかしその直後、私は自分の血が凍りつくのを感じた。

次長が店に来ていたのだ。

そして店長の外谷と武田はまだ出勤してきていない。

次長がこの時間に店にまわって来る事は稀だった。

「こいつが一人で掃除とセッティング、女の出勤確認をしたんだぞ」と次長が私に向かって普通に言った。

私には謝る事しか出来なかった。

そこへ血相を変えた武田が飛び込んできた。

遅刻の平謝りをして、佐々木から張り手を食らっている。

そして、佐々木は武田に「次長が訊きたい事があるってよ」と親指で指し示した。

武田が奥の事務室へ連れて行かれる。

私は店内の死角になっている所から外谷へ電話を入れた。

「おー寝過ごしちまった。
今から行くから佐々木には巧く言っといてくれ」

「いや、俺たち皆、寝坊してしまいまして、変に思われたみたいです。
次長が来ていて、今、武田が事務室に連れて行かれました。
千葉主任は出勤したんでしょうか?」

電話の向こうで大笑いをしている。

この男はこんな時でも笑っていた。

「分かった。
俺はこのままフケるよ。
千葉も恐らくは、出勤しないで寝ているな。
武田は吐くかも知れないが、お前は自分が俺のトコロへ来ようと思っている事は、とぼけろよ。
じゃあな!
また連絡をくれ」

切れた。

アッケラカンとしたものだ。

しかも、私はまだ行くと返事はしていない。

武田が神妙な顔で事務室から出て来て私の番だと言った。  


Posted by H (agent045) at 03:00第五話

2009年04月01日

第六話

私は奥の事務室に向かった。

次長が座っている。

私はこの男の、眼鏡の奥の狡猾そうな視線がとても嫌いだった。

ドアを閉め、突っ立っていた私に椅子を指差し、座るように促した。

眼はこちらを向いていない。

私は座った。

微笑んでいる。

ライターを手の中で弄びながら微笑んでいる。

早く話を始めてくれ。

私は心の中で叫んだ。

永い沈黙が、私になぜここにいるのかを分からなくさせる。

「お前は遅刻をするような奴じゃない。
嘘もつくような奴じゃないよ。
お前はまだ入って間もない頃、次長のこの俺に向かって、自分はキャバクラに来る客の気持ちが分からない、客に売っているモノは何か?と訊いてきたな。
俺が女だと答えるとお前は違うと言って、空間と雰囲気じゃないのかと答えた。
俺はそれも売り物のひとつだと言った事があったな。
随分、真っ直ぐな奴が入ってきたと思ったよ。
お前は絶対に俺に嘘はつけない。
飲みに行った事を叱るつもりは無いよ。
ただ店に穴を開けるような飲み方を、部下と一緒にしてしまう店長を、お前はどう思う?」

下を向きライターを弄んでいる。

そのままだった。

「駄目ですね。
俺が言えるような立場じゃありませんが、この店の店長としては失格です」

「そうだよな。
お前にも部下がいるんだ。
もう同じ間違いはしないでくれ」

「わかりました。
申し訳ありません」

まったく関心がなさそうに、こちらを向かない。

この会社の性質か、水商売の性質か、私以外の者は上司から部下まで殆んどが、誰かしら毎日遅刻していた。

皆、自分の上司に張り倒され、減俸を食らうだけで処分は終わりだった。

遅刻の事で次長から叱責を受ける者はいない。

次長は煙草を咥え、火をつけた。

私の頭の中では、もう話は終わりじゃないのかと言い続けていた。

早くここから出してくれ。

「お前も吸えよ」

言われた通り火をつけた。

話は終わりじゃない。

感じた。

吸うたびにチリチリと煙草が燃えていく音だけが聞えてくる。

質問もしてこない。

永い。

空気が重く圧し掛かってくる。

私の指先からポトリと床に灰が落ちた。

私は次長を見た。

次長は眼だけでこちらを見ていた。

「何を話した?」

もう微笑んでもいない。

「誰とでしょう?」

「外谷とさ」

眼鏡の奥の眼だけで私を見ている。

「店の話・・・今、売り上げがどうとか・・・」

実際、はじめはそんな話もしていた。

「いつだ?」

「昨晩の話をしているんですよ」

「いつ店を出すんだ?」

「・・・」

頭の中が真っ白になった。

いきなり来た。

既に知っている。

武田が喋ったのか・・・。

また灰がポトリと床に落ちた。

私は灰皿を引き寄せ煙草を消した。

もう知っている。

腹を決めるしかない。



私は次長の眼をしっかりと見た。

「俺は・・・話すつもりありません。
嘘をつくつもりもありません。
実際、昨日は店の売り上げの話もしましたけど、他の話もしました。
だけど・・・それを今ここでするつもりも、ありません」

フッと笑顔になった。

眼だけが笑っていない。

次長が煙草を消す。

「お前が武田と同じ方法で喋るとは、はじめから思っていないよ。
しかし、お前はこうやって店に穴を開けた外谷の肩を持つのか?」

「別に誰の肩を持つとか味方するとか、誰につくとかいう事じゃありません」

「外谷に誰にも言うなと約束させられたのか?」

「そういう事ではなく、自分の中でこの話は誰にもしないと決めてしまったので、周りがどう動こうと話すつもりはないという事です。
しかし、その話によって俺も動こうとは思っていません」

この男にはこれで充分だと思った。あとは巧く逃げるしかない。

「どこなんだ?」

黙っていた。

何も考えないようにした。

腹を決めてしまえばこんなものだ。

殆んど同時に、煙草に火をつける。

私は次長を見据えた。

笑っていない。

眼が合ったままだ。

沈黙が嫌ではなくなった。

頭の中で数をかぞえていた。

三百。

恐らく私の表情は、もう、どうでもいいような感じになっていた。

「俺が脅しても殴っても喋らない男だという事を、ご存知だという事ですよね」

眼は合ったままだ。

指が焼けたのか次長は一瞬驚いたような顔になり、自分の指先に眼をくれると急いで煙草をもみ消した。

私の番だった。

灰皿を引き寄せ、ゆっくりと煙草を消す。

「これ以上話していても、店に迷惑がかかるだけですから仕事に戻ります」

私が立ち上がっても、次長は止めようともしない。

一礼し、店内へ戻って行く。



私は、殴られれば口を割ってしまうような男かも知れなかった。

しかし、自分の中で決め事をつくり、守る。

そして、人の印象は他人が勝手に築き上げていく。

フロントに行き武田の腹に軽くオミマイした。

武田がうずくまりながら「喋ってすいません」と言い、私は笑って仕事に戻った。

次長が冷めた表情で店から出て行く。

営業が終わり、私は外谷に報告を入れた。

「それは、たぶん武田が全部喋ったな。
まあ、はじめからあいつには口を切ってもらうつもりだった。
予定より少し早かったがね。
もう、お前もそこに長くは居られないな。
早いトコばっくれて、合図があったらすぐに動けるようにしておけよ」

電話を切った。

私はまだ返事をしていない。

もう、水商売はいい。



次の日の朝礼で、次長は店長が解雇になった事を発表した。

女の子たちは大騒ぎだった。

そして支配人の佐々木が副店長に昇格した。

店長と名の付く者がいなくなったのだ。

タイミングが悪いとは思ったが、私は今回の事とは関係なく、あと一ヶ月で店を辞めさせてくれと佐々木に言った。

佐々木とは色々あったが、人間性は悪い奴ではなく、私のことも可愛がってくれ、辞めたい理由を納得し、私の為にと、店に引き止めるのを諦めてくれた。

それから次長は何度か店に顔を見せたが、挨拶をしても私の事は無視だった。

そんな時、私は「あんたは女か・・・」と呟くのだった。

しばらくすると、赤上が失踪したという情報が流れてきたが、彼からも直接連絡が来て、プリンスの寮を抜け出し、八王子の店舗の為に準備をしていると語っていた。

私は八王子に行く気がない事を伝えたが、とにかく、西さんという人に会ってくれという事で、一方的に話は終わらされた。



辞職を受け入れられた私は以前より活気を出して、担当コンパニオンの売り上げを伸ばし、女の子の面倒もよくみていた。

「発つ鳥、あとを濁さず」が好きなのだ。

きれいに辞める。

今までもそうしてきた。

忙しくて出来なかった常連のボトル台帳も、きれいにまとめあげた。

営業中も以前よりさらにキビキビとし、ウェイターに一喝入れ、女の子に話しかけて指示を与え、客に最高の笑顔で応対し、恭しくお辞儀をした。

佐々木は嬉しそうだった。

「そうか畑中ちゃん。
やる気を出してくれたか!」

「いえ、違います。
いいかげんなまま辞めたくないだけですよ」

「それは、こっちにとっては残酷な事だぞ。
出来る男が辞めていくのを、ただ眺めている事になる。
お前は見せ付けたいのか?」

「そんなつもりはありません。
しかし・・・」

「わかったよ。
無理強いはしないよ」

佐々木の態度は以前と全く変わりなかった。



私が辞める日まであと二週間と少し、という頃だ。

営業が終わるとドカドカと、スカウトの為に会社で雇っている若い衆たちがやってきた。

「畑中!おい畑中!」

呼び捨てとは何事だ。

上下関係の明確なこの世界で、下の者から名前を呼び捨てにされたのは初めてであり、私もいきり立った。

しかし、後ろから次長もやってきている。

次長と一塊になっている集団を見て、私は呆然とした。  


Posted by H (agent045) at 02:00第六話

2009年04月01日

最終話

「てめぇ!こっち来て座れよ!」

腕を引いて連れて行かれた。

店のVIPルームだ。

次長はホールのシートに座り、煙草をふかしていた。

「おめぇ辞めんのかよ!
あんなに可愛がってくれた次長や佐々木さんに恩は感じねぇのか!
おいっ!」

「恩は感じているが、お前らには関係ないよ」

「ふざけんじゃねぇぞ!
そんなんじゃ恩を感じてるなんて言えねえよ!
女も引き抜いて他の店に行くつもりなんだろうが!」

「別に他の店に行くつもりもないし、女を引き抜くなんて事もありえない」

「嘘つけよてめぇ!
じゃ、なんでコンパニオンがおめぇ辞める事知ってんだよ!
皆、動揺してんぞ!
店潰す気かよ!」

「俺は女に喋ってないよ。
副店長と、そこにいるお前にしか喋っていないんだ、高山」

喚いている男の隣に高山は立っていた。

高山は私と馬が合い、よく一緒に二人組みの女の子を捉まえて、スカウトをしたものだ。

大変な苦労を経験している奴で、事情があり一緒に暮らしている自分の恋人までも、この店に入店させていた。

コンパニオンたちに噂を流したのは恐らく、その彼女だろう。

「俺か?
俺は確かに彩に話しちまったけど、俺か・・・。
でもよ畑中さん。
やっぱり、あんたのしようとしている事は筋違いなんじゃねぇのか?」

「筋違いも何も、俺は自分が水商売に向いていないから辞めるんだ。
そして、一ヶ月前にその事は上司に伝えている」

また煩い男だった。

「辞める人間がなんでバリバリ働いて、コンパニオンの売り上げを伸ばしてんだよ!」

向きなおして言った。

「俺にとっては、それが筋を通す事なんだ」

次長が来て「まあ皆、座って話したらどうだ?」と言った。

この男か。

またこの男が皆に嗾けたんだ。

私の方は見ようともしない。

皆、座った。

VIPルームには仕切りの壁は無く、ホールよりも一段高くなっているだけで、ホールとの境は柵で仕切られている。

VIPルームの入口はひとつで中にボックス席がふたつ。

そのふたつのボックス席に男たちがビッシリと座っていた。

「てめぇ外谷のトコに行くんだろうが!」

「行くつもりはない」

「じゃ、なんで辞めんだよ!」

「水商売を続けていく気が無くなっただけだ」

「嘘つけよ!てめぇ、やんぞ!」

襟首をつかまれ、立った。

と同時に皆が席を立つ。

襟首はつかんだ方の負けだ。

私はつかまれた側の腕を内側から上へ突き出し、相手の腕に腕を乗せるようなカタチで相手の首をつかんだ。

そこに次長が怒鳴った。

「おい!すわれ!」

皆がハッとし、座った。

私たちも手を放し、座った。

危ないところだった。

ここで喧嘩をすれば無法を働く従業員として警察へ突き出されてしまう。

知っている。

そんな手でも平気で使う奴だった。

次長が近づいてくる。

「俺は、お前の事を買ってんだよ、畑中。
辞めて欲しくない。
そして、コイツもお前の事を買っている」

次長は言って、佐々木を顎でしゃくった。

佐々木は下を向いたまま、VIPルームのすぐ下のシートに座っていた。

佐々木は昔、私の事を以前の店長と仲が良かったからと言って、殴りかかってきた上司だ。

だが悪い奴ではない。

「俺は佐々木さんの事、好きですよ。
でも、それと」

「その佐々木さんの気持ちを、裏切ろうとしてんじゃねぇかよ!」

また、男が喚いた。

埒があかず、私は何を言われても、もう口を開かなかった。



「もういい。
もう一度よく考えてくれ、畑中」

次長が背中を見せて叫ぶ。

「おい、お前ら!もう行くぞ!」

男たちを連れて、次長が出て行った。

店に静けさだけが残った。

黙ったまま私たちは帰り仕度をはじめた。

店を施錠する音が、やけに大きく響く。

同じ店のスタッフを乗せたエレベーターの中で佐々木が囁いた。

「店の鍵と、会社の車の鍵を渡せ。
辞めるつもりなら、もう明日から来るな。
今日までの分の給料は銀行に振り込んでやる」

私は鍵を一式、佐々木の掌にのせた。

「今日は店部長の車で送ってもらえ。
ただ俺は・・・明日、普通に出勤してくるお前の姿を見たい」

私は頭を下げ、店部長である田岡の車の助手席に乗り込んだ。

田岡は無言のまま私を家まで送り届けた。

彼は若い頃から水商売一筋の初老の男で、とても面倒見がよかった。

別れ際も何も言わず、一瞬、私を見て微笑むと滑るように車を発進させ、すぐに見えなくなった。



霧雨の降る、蒸し暑い朝だった。






三日後あたりから携帯電話の呼び出し音が、止めどなく鳴った。

上司、同僚、コンパニオン。

佐々木からの電話には出て、もう一度はっきりと断り、口座番号を伝えた。

もうひとつ憶えのない、知らない電話番号からも呼び出し音が鳴った。

しばらく考え、私は出る事にした。

「おー畑中か?森田だよ。
もう戻らないのか?・・・そうか。
仕事は見つかったのか?・・・そうか。
分かった。
気が変わったら連絡してこいよ。
それから、もう大丈夫だから安心して暮らせよ。
じゃあな」

本社本部の森田専務だった。

話した事は一度もない。

会議の時、前で話しているところを眺めるくらいだった。

店にも客のようにして何度か飲みに来た事があったが、直接は知らない。

彼からの電話は未だに謎である。



一年後、次長はクビになった。

そして、私は離婚をした。



水商売。

客の人気によって収入が左右される、流行り廃りのはげしい商売。

よく言ったものである。

そう、売り上げなど関係ないところでも、明日をも知れない商売だった。

今日の上司が明日の部下というのも、ここでは当たり前だった。

実力主義なのは、結構な事だし、ここでは述べる事が出来なかった、男らしい気持ちのいい瞬間を味わう事もあった。

それでも水商売の世界は、相手を疑う、裏切る、陥れる、という意地汚い女々しいモノを多分に含んでいた。






さて、私は何をして暮らそうか・・・。






  


Posted by H (agent045) at 01:00Comments(6)最終話