20代前半の畑中はそれまでの商社を辞めて、水商売の世界に入る。はたして、愛読小説の中に見た男たちの壮絶なドラマは繰り広げられたのか?想像に描いていた通りの実力の世界だったのか?これは畑中が若かりし頃・・・20年程前の物語である・・・

2009年04月01日

第一話

上が見えていた。

もう、昇格する事はないと明言されたようなものだ。



バンド活動を辞め、サラリーマンになろうと決心し入った小さな商社だ。

上司は社長とその息子であり、二十代前半の私はこの淡々と商品の仲介をしている会社で何を成し遂げようというのか。

社長は今の売り上げで満足しており、何かを仕掛けるというような野望を持っておらず、部下も楽をして生きる事しか考えていない。

会社を変えようなどという事は、私には考えられなかった。



実力の世界。

その言葉は私にとって、とても甘い響きに聴こえ、魅力的な世界に思えた。



その頃、愛読していた小説の中に「ブラディ・ドール」という名のクラブを舞台とした男たちのドラマがあった。

水商売の世界で生きる男たちの壮絶なドラマだ。

ストーリー設定が水商売というだけのものである事は重々承知していたが、ネクタイをぶら下げて満員電車の中で垣間見るその世界に私は惹かれ、いつしか、熱い男たちと実力の世界で生きる事を心に決めていた。






「おい、便器は磨いたのかよ」

「はい」

「便器に顔が映んねえぞ、コラ」

浜野が鼻血を袖で拭いながら、再び雑巾を持って、便所に向かった。

どんなに磨いても便器に顔が映ることはない。



入社して、まず教えられた事は掃除だった。

十六時に出勤し、雑巾がけ、掃除機かけ、トイレ掃除。

舐める事が出来る程に念入りに行う。

そして上司のチェックが入り、掃除のしなおしが命じられる。

逆らえば鉄拳制裁である。



同期が他に三人。

三人とも私より一週間前の入社であり、店の籍に入っているのは、新人四人と店長のみであった。

他の上司は同社他店からの応援だ。

他に二人の中国人が料理と酒作りを担当していた。



掃除の次がテーブルセッティングで、テーブル、コースター、ウォーターポット、タンブラー、灰皿を並べ終えると、既に十七時をまわる。



中国人のチーフがホールに食事の時間である事を伝え、私たちは賄を自分でテーブルに運び、店長の望月に声をかけ、スタッフ全員で同じ食事をとる。

賄といってもステーキや本格中華が出る事もしばしばで、食事は皆、申しぶんないといった感じだ。

唯一、雑談が許される開店前の時間で、食事中は皆、活き活きと会話を楽しんでいたが、私は同期の武田、浜野、山口の三人と自分から会話をはじめようという気にはなれなかった。



食事を済ますとすぐにおしぼり巻きで、早く、多く、綺麗に巻く事が鉄則となる。

もともと巻いてある状態で袋詰めの物を、袋から出して巻きなおす作業は、殆んど時間つぶしとしか思えなかった。

巻きなおした物をホットウォーマーに入れ、十八時半頃には看板を磨き、おもてに出す。



あとは備品の整理や補充をし、十九時の開店まで小さな雑用を探しながら、暇をみてドリンクを作るスペースであるパントリーで皆、一服する。



武田は同期の中で唯一の水商売経験者で、他社で水商売を三年も続けた男である。

この世界の新人は一ヶ月程度で入れ替わると聞いていた私は、武田から目を離さないようにして、仕事を行っていたが、その視線に気づいた彼は、丁寧に仕事の仕方を教えてくれるのだった。
Posted by H (agent045) at 07:00 │第一話